葉室 麟 『秋月記』

e0028123_1183914.jpg私はあの日、逃げない男になると決めたのだ・・
小四郎は釣瓶で汲んだ水を頭からかぶった。 涙を水で流したかった。 髷から滴をほたぽたと滴らせながら、(逃げない男になりたい)そう思って月を見上げた。

お前は臆病者の剣を使え。 臆病者だとあきらめてしまえ。 怖いがゆえに夢中で剣を振るうのだ。 されば無心になれよう・・。 その日から小四郎は屋敷に戻ると、ひたすら刀を振るった。

悪人を除いたからといって民百姓が豊かになるというものではない。 「正しいことさえ行えば」というのは、務めることからの逃げ口上になる時があるのだ。

わたしは葛を作ることができたから幸せです。思い残すことはありません。
ならば、なおのこと養生すればよいではないか。
いえ、もうよいのです。 わたしは、もう人の役に立ちましたから。

清廉潔白なお方やさかい、かようなものはお嫌いやろと思います。 そやけど・・
金というものは、雨のように天から降りまへん。 泥の中に落ちてるもんだす。 手を汚さんでとることはできまへん。 要は誰かが腹をくくって、手を汚すかや。

山は山であることに迷わぬ。 雲は雲であることを疑わぬ。 ひとだけが、おのれであることを迷い、疑う。 それゆえ、風景を見ると心が落ち着くのだ・・ 小四郎、おのれがおのれであることにためらうな。 悪人と呼ばれたら、悪人であることを楽しめ。 それがお前の役目なのだ。

「わたしはにげなかっただろうか」
「お逃げになりませんでした。 命がけでわたしを助けてくださいました」
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by Hhisamoto | 2009-05-10 11:08 | ■えせ文化人(本、映画・・)
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