ヒサモト洋菓子店 三代目

e0028123_2059536.jpg従弟である久本恭永の四十九日の法要があった。 骨になった身を墓にしまい込む日だ。 ただ、それだけでは寂しいから、来てくれた人たちと宴席を持つのがこの国のならわしだ。

親類縁者と三軒茶屋商店街の人たち60名ほどが集ったその席で、私は従兄として話しをするように求められた。 しかし宴も後半になり、ビールと紹興酒ですっかり酔っ払ってしまった私は、何を言ってるんだかまとまりがつかなくなってしまった。 

おそらく私は、こう言いたかったのだ。

10月31日、午前10時10分 彼が胃ガンでこの世を去りました。
こんなに身にせまる別れを感じるとは思ってもみませんでした。
どうにも感情が抑えきれない。 どう整理をつけたらいいのか、まったく分からない。 
そんな状態でした。 しかし、いにしえの慣習である四十九日とは、さすがによくできたもので、こんな感情も多少落ち着かせてくれるもんだな、といい年をしてやっと分かった思いがしました。

ご周知の通り、彼はヒサモト洋菓子店の三軒茶屋の店を継いだ3代目でした。
彼の人生は、ヒサモト洋菓子店のパティシエとして生きた生涯ともいえます。

ヒサモト洋菓子店のルーツは、我々の祖父にあたります久本晋平が、長崎からカステラの技術をもって広島、大阪へと上り、そして当時、希少価値の高かった洋菓子のさきがけとして東京の渋谷に店を出したことに始まります。 祖父の自伝に昭和15年とありますから、今から60年近く前のことです。

そのころ東急グループの総帥であった五島昇は、東急田園都市計画というものを着手しておりました。 渋谷、三軒茶屋、自由が丘、といった地域に商業都市と住宅都市を作り、それを電車・バスなどの交通網で結ぶという壮大な計画でした。 祖父・晋平はこの東急田園都市計画に賛同して、東急沿線に店を拡げ成功しました。 日本洋菓子協会の初代会長として、日本を代表してアメリカと折衝し、小麦粉の輸入に尽力した話しなども聞いております。

恭永の父・泰弘おじさんの時代には、店舗を三軒茶屋店に集約しなければならない厳しい時がありました。 そして、彼がドイツでの修行から帰国して、実質的に店を引き継ぎました。 彼自身が言っていました。 ドイツでの勉強も貴重といえるけど、やはり日本でお客様と向き合って、実践で身につけたものが大きいと。 季節の果物を地方から仕入れて使ってみたり、コーヒーの豆を変えてみたり、店を禁煙にしてみたり、テレビに出たり、試行錯誤、悩みながら、愛される店を作り上げるに至りました。

つらいことは忘れたいという考え方もありますが、反面私は、自分の知りうる限りの彼を、ことあるごとに語っていきたい、と思っています。 彼と共に一旦「ヒサモト」の看板は下りることになりますが、私はこんな話しを滔々とするおやじになってやろう思っています。

それから、石井の善彦おじさん、千野の総太郎おじさん、ここに至るまでの特殊治療のこと、病院のこと、店を閉じ「マツキヨ」に到るまでのご支援のこと、彼からも聞いておりました。 感謝と大きな恩を感じずにはいられません。

・・・・と、こんなことを話したかったのだと思う。
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by Hhisamoto | 2005-12-17 23:16 | My room
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