山本周五郎の「さぶ」

江戸人情モノの金看板は、やはりこの人をおいていないと思う。

e0028123_2320533.jpgともに表具師の丁稚として育ち、成人するさぶと栄二。 なにごとにも勘がよく、機敏な栄二。 見栄えがなく愚鈍で要領の悪いさぶ。 しかし、人としてどこに優劣があろうか? アリとキリギリス。 うさぎとかめ。 常にこの手の組み合わせはあるが、物語は、成長する人間の奥深さと、さらに女の情念が加えられている。 「世の中、男と女しかいないんだよ」などと、恋愛ごとを知ったかぶって、まとめて片付けようとする時に使うフレーズも、そんな程度のもんじゃないいんだぞ!と教えてくれる。 

また、この話しの重要な舞台に、栄二を人間として成長させることになる石川島の人足寄場(にんそくよせば)があるが、ここは牢獄とも違うし、死ぬまで働く佐渡の金山とも異なる「更正施設」であることが興味を引く。 発案は、あの鬼平こと「長谷川平蔵」であり、物語の中に一度だけその名が登場する。 その人足寄場は、ある程度の自由が与えられ、ルールがあいまいな上に成り立っている社会だ。 

集団をなす人間には、程度のよいルールに縛られることが必要であり、文句や愚痴の一つも言いながら活動した方が全体のバランスを保つことができるものだ。 規制のないフワフワした状態を与えられると、持て余して無駄にしまうのが人間だ。 そんな中にも、力を誇示する者や長いものに巻かれる者、容赦ない不正と「いじめ」は常に存在し、栄二はまさにそこで生き抜いて成長していく。 「寄場でのあしかけ三年は、しゃばでの十年よりためになった。これが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を言いたいくらいだよ」と栄二が言う。 これが長谷川平蔵の意図した大きな差配だと結び付ければ、それもまた興味深い。

シーンとして私の心に残ったのは、物語の後半、すでに社会に出てひとり立ちした栄二が、大きな仕事を請けた喜びを伝えるために、世話になった元締同心の岡安喜兵衛に報告に行く。 栄二が人格者と目する岡安は喜びながらも、問題を抱えて相談に来たわけではないことが分ると、すでに更正した栄二には別段の興味も示さず、今の人足寄場で起こっている問題児のことでうわの空になる。 これが「生きる人間」のあるべき姿のような気がした。

話しの主人公は「栄二」であり、物語の主題とするものを持っているのは、タイトル通り「さぶ」であることも面白い。 現代の山本一力や乙川優三郎もいけてるが、山本周五郎の世界はまだまだ広くて深い。 

余談だが、山本周五郎自身は結婚してからも家庭を顧みることなく、あたたかい家庭は創作活動の敵として、旅館の離れにこもって仕事をし、破滅型文士といわれることに誇りさえもったという。 
..今の私には、楽しい家庭を顧みずにはいられない。
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by Hhisamoto | 2005-09-05 23:09 | ■えせ文化人(本、映画・・)
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