カテゴリ:■えせ文化人(本、映画・・)( 106 )

ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」

ドイツ文学というものに私はあまりなじみがなかったが、1995年に出版されたこの「朗読者」はドイツで大ヒットした後、世界の20ヶ国語以上に訳され、特にアメリカでは200万部を超えるミリオンセラーになったという。 

e0028123_23354130.jpg物語は大きく前半と後半に分かれる。 
前半では、主人公ミヒャエルが15歳で、倍以上年上の女性ハンナに恋をして、身も心もハンナに浸りきる様子が描かれている。 また、題名の通り、ミヒャエルがハンナに、ベットで本の朗読をすることが習慣のようになる。 その頃のミヒャエルはハンナが文盲であることに気づいていない。 ハンナも文盲であることを隠すことが生きる上での基本になっている。 そんな知識に飢えたハンナがミヒャエルに本の朗読を求め、ミヒャエルもそれに応える。 
そして、突然姿を消してしまうハンナ。

後半は、そのハンナが被告人という形で成長したミヒャエルの前に現れる。 法学生の立場で裁判を傍聴する形でハンナを見つめるミヒャエル。 ハンナの係わった罪は、ドイツのかかえる大きなテーマであるナチス時代のアウシュビィッツであり、その収容所の看守として従事していたことだ。 ハンナは有罪となり刑務所で過ごすが、やがてミヒャエルはそのハンナに自分が朗読したテープを送り続けるようになる。 ハンナはそのテープを再生機が壊れるまで聴き続ける。 そして、あれほど頑なに閉じていた文盲であることの殻を自ら破りすてることになる。 

ユダヤ系イギリス人の評論家で、日本にも何度か訪れたことのあるジョージ・スタイナーという人は、この本を二度読むべし、と言っているそうだ。 きっと「一読では読み取れない含蓄の深さが、二度目には分かるはずだよ」といってくれているのだろうが、後半は結構重たいものを感じるので、再読の気は今のところ起こらない。 むしろ、年上との恋愛に迷いなく溺れ込む若いミヒャエルに感情移入して読むことは不謹慎だろうか。 新しい出会いから心が大きく揺れ動く様子。 扉の向こうはどんな世界なのか? 高鳴る胸の鼓動に負けまいと勇気を振り絞って開ける扉。 私はそんな、階段を意志をもって登っていくような姿が描かれている前半の方が、文学的で好きだ。

ところで、ハンナが文盲であったことは、ミステリーでいえばトリックのようなポイントであるから、物語をこれから読む人がいたとしたら、タネを明かしてしまうようでたいへん申し訳ないが、このブログは私にとって、自分の考えや経験を文字にして再確認する楽しい作業であることが最優先なので、ご容赦ください。 
..後読者にあまり配慮した書評ではないのです。 スミマセン。
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by Hhisamoto | 2005-09-17 23:41 | ■えせ文化人(本、映画・・)

宮部みゆきの「火車」

この作品が、宮部みゆきの最高傑作だと思う。

e0028123_027198.jpg長い廊下の扉を正面からバンバンと開け放っていくような展開は、ミステリーでありながら小細工のない小気味よさを感じる。 10代で読んだ松本清張の「点と線」の記憶がよみがえってきたのは、新鮮な思いを呼び起こすほどのパワーがある、ということだろうか。 あるいは、 松本清張作品に肩を並べるほどの小説であるということだろうか。

宮部みゆき作品の特徴の1つは、「子供」と「幽霊」の存在にあると思う。
「火車」においても、智という刑事に育てられるいたいけな子供がいる。 宮部みゆきという人は、子供に対して心のこもった目を向けている人なのだと思う。 大人とは別の崇高さを持った存在として見ていることがにじみ出ている。 この小説の中でも、智の存在は話しのプロットにはさして関係ないが、何か重要なメッセージがあるように思えた。

もう1つ面白い点は、犯人を追う刑事の本間は、公傷を負って休職中の身であり、仕事ではなく個人の思いによって行動していることだ。 それも、憎しみや正義感といったモチベーションとは別の次元の思いを抱いている。 また、行方不明となった幼なじみの身を案じて、本間刑事と行動する自動車修理工の本多保の存在もまたユニークだ。 そして、本間は追い詰めた犯人像に対しての最後のカードを保に引かせることになる。

あとがきで、佐高信が絶対に直木賞を取ると思ったと語っているが、実際のところは山本周五郎賞受賞作となっている。 その93年の直木賞は、上期が北原亞以子 『恋忘れ草』 、高村薫 『マークスの山』 、下期が大沢在昌 『新宿鮫 無間人形』 、佐藤雅美 『恵比寿屋喜兵衛手控え』 となった年だった。 この夏、2000年直木賞受賞作である山本文緒の「プラナリア」を読んで、直木賞の選考基準にもばらつきがある気がした。 かっての山本周五郎のように直木賞を辞退する人もいることだし、私も作家や作品の肩書きにとらわれずに本を読むことにしよう。 
ちなみに宮部みゆきは99年に「理由」で直木賞を受賞している。
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by Hhisamoto | 2005-09-11 23:40 | ■えせ文化人(本、映画・・)

山本周五郎の「さぶ」

江戸人情モノの金看板は、やはりこの人をおいていないと思う。

e0028123_2320533.jpgともに表具師の丁稚として育ち、成人するさぶと栄二。 なにごとにも勘がよく、機敏な栄二。 見栄えがなく愚鈍で要領の悪いさぶ。 しかし、人としてどこに優劣があろうか? アリとキリギリス。 うさぎとかめ。 常にこの手の組み合わせはあるが、物語は、成長する人間の奥深さと、さらに女の情念が加えられている。 「世の中、男と女しかいないんだよ」などと、恋愛ごとを知ったかぶって、まとめて片付けようとする時に使うフレーズも、そんな程度のもんじゃないいんだぞ!と教えてくれる。 

また、この話しの重要な舞台に、栄二を人間として成長させることになる石川島の人足寄場(にんそくよせば)があるが、ここは牢獄とも違うし、死ぬまで働く佐渡の金山とも異なる「更正施設」であることが興味を引く。 発案は、あの鬼平こと「長谷川平蔵」であり、物語の中に一度だけその名が登場する。 その人足寄場は、ある程度の自由が与えられ、ルールがあいまいな上に成り立っている社会だ。 

集団をなす人間には、程度のよいルールに縛られることが必要であり、文句や愚痴の一つも言いながら活動した方が全体のバランスを保つことができるものだ。 規制のないフワフワした状態を与えられると、持て余して無駄にしまうのが人間だ。 そんな中にも、力を誇示する者や長いものに巻かれる者、容赦ない不正と「いじめ」は常に存在し、栄二はまさにそこで生き抜いて成長していく。 「寄場でのあしかけ三年は、しゃばでの十年よりためになった。これが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を言いたいくらいだよ」と栄二が言う。 これが長谷川平蔵の意図した大きな差配だと結び付ければ、それもまた興味深い。

シーンとして私の心に残ったのは、物語の後半、すでに社会に出てひとり立ちした栄二が、大きな仕事を請けた喜びを伝えるために、世話になった元締同心の岡安喜兵衛に報告に行く。 栄二が人格者と目する岡安は喜びながらも、問題を抱えて相談に来たわけではないことが分ると、すでに更正した栄二には別段の興味も示さず、今の人足寄場で起こっている問題児のことでうわの空になる。 これが「生きる人間」のあるべき姿のような気がした。

話しの主人公は「栄二」であり、物語の主題とするものを持っているのは、タイトル通り「さぶ」であることも面白い。 現代の山本一力や乙川優三郎もいけてるが、山本周五郎の世界はまだまだ広くて深い。 

余談だが、山本周五郎自身は結婚してからも家庭を顧みることなく、あたたかい家庭は創作活動の敵として、旅館の離れにこもって仕事をし、破滅型文士といわれることに誇りさえもったという。 
..今の私には、楽しい家庭を顧みずにはいられない。
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by Hhisamoto | 2005-09-05 23:09 | ■えせ文化人(本、映画・・)

山本一力 「ワシントンハイツの旋風」

私があらためて小説に魅せられたのは、30代後半に、パールバックの「大地」を、落ち着いて読む機会を得てからだ。 それまでの私は、ノンフィクションの中にこそ、リアリティを見出せる、と錯覚していたところがある。 ノンフィクションの臨場感からすれば小説(フィクション)は、所詮、「作り物の世界」という観念があったようだ。 しかし、パールバックの極まるような人間洞察の深さに圧倒されてしまい、それまで持っていた読書の世界の狭さを悔いた。 すべての書物は人間の良質な創造物であり、人の心に届く書物に対するジャンルの区分などは、図書館に収まる際の背表紙にしか役立たないことを知った。 一皮むけた小説との付き合いはそれからだ。

e0028123_2247787.jpg私はこの夏、山本一力の「ワシントンハイツの旋風」という、2003年の作品にめぐりあった。 山本一力さんの描く作品といえば、小気味の良い江戸人情モノという固定観念ができそうになっていたところだったので、興味深く一気に読ませていただいた。 時代背景や舞台となるシュチエーションは、氏の体験にもとづくものであることが予想できる。 私も生まれは東京・渋谷だが、ワシントンハイツという米軍住宅があり、東京オリンピックを機に、今の代々木公園に生れ代わったことなどは知らなかった。 

私の祖父は、日本における洋菓子の黎明期にその技術をもって東京へ乗り込み、当時の東急グループの二代目・五島昇の東急多摩田園都市計画に賛同して、渋谷を中心に異色ある洋菓子の店「ヒサモト」として10店舗ほど経営した。 そのころは、身内から成功した人間がでると、親類一同が集まって事業を支えた時代だった。 私の父母も渋谷店の仕事に従事し、神泉駅前の藤田ビルという鉄筋アパートで暮しながら、私を産み、育ててくれた。 

1966年、私は小学校進学と同時に目黒の駒場に移り住むが、目と鼻の先なので渋谷の記憶は多くある。 当時、渋谷・神泉界隈・円山町には、芸者が集う見番があり、人の流れと共に、三味線の音色が常に聞こえていた。 東急百貨店から出発するチンチン電車は、路面を走って三軒茶屋に向かっていた。 リキパレスが道玄坂中腹にあったし、プロレス好きな父は、体の大きな選手をよく店に招いていたようだった。 幸要軒の「かつサンド」は世界で一番美味かった。 商店街の華やかな喧騒、芸能人にやくざ者。 学生運動が盛り上がっていた時期には、道玄坂がデモ行進の場となり、交番が焼かれ、腕を失くした警官の話しも、身近な出来事として聞いた。

時代背景は、私の年代よりひと回りさかのぼるが、高度成長期の昭和の舞台を想像できるこの小説を、楽しく読ませてもらった。 でも、やっぱり山本作品は「あかね空」に代表される江戸の市井を描いた時代小説だと思う。
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by Hhisamoto | 2005-08-21 20:54 | ■えせ文化人(本、映画・・)

がんばっていきまっしょい!

夏は、なぜか読書に適した季節。 数冊の本をもって、開放された時間に、気に入った涼しい場所でも確保できれば、そこは頬が緩むようなゆりかごの中。 

最近、名古屋出張の多い私は、名古屋駅ビルエリアに三省堂がいくつも点在することを知った。 特に高島屋、松坂屋には、本選びに心地よい大型書店がある。 ネットのアマゾンも便利だが、やはり本は情報ではなく「モノ」であるから、手に取って、においは嗅がないまでも、パラパラと立ち読みすることは欠かせない。 あれもいいけどこれもいいと欲張ったり、財布と相談したりの時が楽しい。 また、平積みになって、前に出ている本が自分の趣味に合っていたりすると、「この店は、なかなかセンスがいい!」などと、ひそかに店を誉めたりする。

e0028123_23433796.jpgこの日、迷ったあげくに買った三冊の本はどれもカワイイ。 お盆が近いこの季節柄、戦争の悲惨さを伝える沖縄戦の本や、小泉総理が油を注いだ靖国関連の本も興味深い。 しかし、なぜか私が最初に読み始めた本は、敷村良子の「がんばっていきまっしょい」という、第4回坊ちゃん文学賞大賞作品だった。 

最近、映像にもなっていることをあとがきで知った。 舞台は実在する四国松山の進学校、あの夏目漱石が教員をしていた松山東高校(旧制松山中学)。 筆者の敷村女史は実の卒業生である。 コピーライターなどをしていたが、あり余る想いを形にしてしまった処女作品というやつだ。 内容は想像の範囲を超えない青春ものであるが、セピア色でもなく、澄んだ空色ともいえないが、なんとも良い感じの自然色を持っている。

ストーリーは、なんとか進学校に入ったが、すべてについていけない主人公の悦子が、何を思ったか、女子ボート部を立ち上げ、仲間を作り、ボートに打ち込んでいく。 しかし、彼女たちの感覚は、体育会系の持つそれとは異なる空気の中で、日常の時間が経っていく。 そして、そんな日常的で普通の感覚の中から、負ければ悔しいと思い、「このままでは終われない」というこだわりを持ち始めたりもする。 仲間意識も、不器用な表現の中で、着実に芽生えたりする。 しかし、打ち込んでいく気持ちとは裏腹に、貧血をおこして倒れたり、ぎっくり腰をやったりと焦燥感をつのらせる。 

全編そんな普通感覚にあふれた三年間の高校生活を描いているが、時折ハッとするような人間の生き方を示唆する表現に出会う。 「毎日毎日、人間の細胞は何万個も再生される。 一週間もすれば、外見は同じでも、違う人間だ。 この自分は今しかいない。 一瞬の自分。 この瞬間に感じていること、今、身体すべての血が逆流するほどときめくことだけに、夢中になってはいけないのだろうか。」 というくだりがある。 また、最後のページ、ひとり東京に旅立つ悦子は「大人の階段は昇るというより、深い地下室におそるおそる降りていくような感じがした。」と表現する。

奇をてらうことなく、自分を主人公に置き換えて、ストレートに語るこんな小説が、私は大好きだ。 等身大で、背伸びせず、かつ、小気味良い。 純でほろ苦い「青春ドラマ」を読んで、新幹線の時間を楽しむオジサンがいてもいいだろう。 文句があるか!

あしたも、がんばっていきまっしょい!

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2005 夏
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by Hhisamoto | 2005-08-12 23:14 | ■えせ文化人(本、映画・・)

映画「フリーダ」の人間臭さ

「フリーダ」というラテン系の映画らしきものに、出張先のホテルの有料TVで観入ってしまった。  メキシコの天才女流画家、フリーダ・カーロの47年の波乱に満ちた生涯を映画化したのだそうだ。 学生時代の乗合バスの事故により、一生を重い後遺症と共にいきたこと。 愛情に満ち溢れながらも波乱に満ちた、壁画家のディエゴ・リベラとの結婚生活。 それらの一つひとつに人間らしさを感じずにいられなかった。 

e0028123_054011.jpg美しいバストが印象に残るサルマ・ハエックという女優は、なんと本作の主演兼プロデューサーを務め、この作品の完成に8年を費やしたそうだ。 すべてに本物を求め、メキシコシティに撮影スタジオを置き、時代背景を再現するために、スタッフ一同はクランクインから1週間、メキシコシティの80マイル東を旅をして、コロニアル式やルネッサンス式のネオクラシックの建物を探し当て、ロケ地としたそうだ。

また、多くのピラミッドが並ぶ遺跡での撮影にこだわり、ハエックはメキシコ大統領に掛け合い、フリーダへの敬意から映画を製作すること、遺跡での撮影がどうしても必要であることを力説し、大統領からピラミッドへの立ち入り許可を得たという。 すべてのシーンや表現が美しく、そしてリアルであることが納得できる。

金粉を撒き散らしながら死の淵に向かうシーンも、生と死の境目をマンガで表すシーンも、すべて詩的で、鮮やかに私の記憶に刻み込まれた。 私は、こんな生々しい生き物としての人間が描かれたドラマが好きだ。 人間としてのアイデンティティ、性、政治との関係など、なんとも人間臭くて、深く引き込まれた。 

こんなすごい映画を観てしまったら、ムキムキ ドンパチのハリウッド映画なんぞは、水曜ロードショー以外では観る気がしばらく起こらないだろう。 
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by Hhisamoto | 2005-08-05 01:15 | ■えせ文化人(本、映画・・)