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インド式カレー「夢民」で見た夢

「夢民」というお店でポパイカレーを食べた。
このお店、住所は大久保だが、戸山公園わきにあるので高田馬場といった方がよいところにある。 店内は広く、テーブル席もあると思いきや、このお店はご夫婦らしきお二人が12名ほど座れるカウンターのお客のみに、その場でつくるカレーを食わせる店らしい。 

それに気づいたのは、昼飯時の直前にとまり木のようなカウンター席に座った私が、混み合ってきたので様子を見ようとふと後ろを振り返った時だ。 てっきりテーブル席でオーダーを待っていると思ったお客達は、一昔前の床屋の待合いのように壁際の長イスに背中をつけて、カウンターでカレーを食しているお客達の背中を見つめていた。 あの広いフロアスペースを客席に使っていないのは、一品ずつ丁寧にカウンター席のお客の顔を見ながらサーブしようとする店主の心意気なのか、あるいは居抜きで借りたこの店舗が広すぎるだけなのだろうか。 

おそらくこのお店の前身は、バドワイザーのネオンサインが小粋に光り、ナポリタンスパゲティーなどを食べさせ、カウンターでは若者相手にカクテルやビールを出していたお店だったのではないだろうかと想像をはたらかせてしまった。

私が注文したのは、ホウレンソウ、ホールトマト、タマゴを使ったポパイカレーだ。
カレーの辛さもオーダーできるので、中辛の域に属する番号を頼んだ。 辛いのは好きだが、あまり辛すぎると味に気がいかなくなるので、控えるようにしている。 広いオープンカウンターなので、客はカウンター内で調理しているオヤジさんのうしろ姿を足元まで見ながら出来上がりを待つことになる。 2種の小型フライパンを巧みに使い、しきりに調理スプーンをGABAN缶に運ぶ。 野菜もふんだんに使い、最後にソースポットに盛る姿は文字通りの手作りだ。 

味の調和もよく、バランスのとれたスパイスの組み合わせをもっていて、私にはとてもおいしく感じられた。 しかし、外看板に「インド式カレー」とあるのはビミョーなニュアンスだ。 インドカレー特有のクミンの強烈な香りはこないし、もちろんインド人スタッフもいない。 インド式とは何を指しているのだろうかと、余計なことを考えてしまった。

オヤジさんの手作りの姿と、カウンターの作りが気になった私は、カレーもカクテルのように、とまり木に座ったお客のリクエストに応じて作る姿をイメージしてしまった。
(たとえばこんなふうだ)
「いらっしゃいませ、何にしましょうか」
「そうね、今日はいい事なかったから、パァーと目の前が開けるようなパンチの効いたやつがいいな。 うん、色にたとえるなら、冴えたオレンジ色っていうところかな~」
「わかりました、おまかせ下さい」と言って、やおらナベを振るいはじめるのだ。

ウン、こんなカレー屋があってもいい! 絶対ありだ。
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by Hhisamoto | 2005-09-30 21:57 | ■B級グルメ

ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」

ドイツ文学というものに私はあまりなじみがなかったが、1995年に出版されたこの「朗読者」はドイツで大ヒットした後、世界の20ヶ国語以上に訳され、特にアメリカでは200万部を超えるミリオンセラーになったという。 

e0028123_23354130.jpg物語は大きく前半と後半に分かれる。 
前半では、主人公ミヒャエルが15歳で、倍以上年上の女性ハンナに恋をして、身も心もハンナに浸りきる様子が描かれている。 また、題名の通り、ミヒャエルがハンナに、ベットで本の朗読をすることが習慣のようになる。 その頃のミヒャエルはハンナが文盲であることに気づいていない。 ハンナも文盲であることを隠すことが生きる上での基本になっている。 そんな知識に飢えたハンナがミヒャエルに本の朗読を求め、ミヒャエルもそれに応える。 
そして、突然姿を消してしまうハンナ。

後半は、そのハンナが被告人という形で成長したミヒャエルの前に現れる。 法学生の立場で裁判を傍聴する形でハンナを見つめるミヒャエル。 ハンナの係わった罪は、ドイツのかかえる大きなテーマであるナチス時代のアウシュビィッツであり、その収容所の看守として従事していたことだ。 ハンナは有罪となり刑務所で過ごすが、やがてミヒャエルはそのハンナに自分が朗読したテープを送り続けるようになる。 ハンナはそのテープを再生機が壊れるまで聴き続ける。 そして、あれほど頑なに閉じていた文盲であることの殻を自ら破りすてることになる。 

ユダヤ系イギリス人の評論家で、日本にも何度か訪れたことのあるジョージ・スタイナーという人は、この本を二度読むべし、と言っているそうだ。 きっと「一読では読み取れない含蓄の深さが、二度目には分かるはずだよ」といってくれているのだろうが、後半は結構重たいものを感じるので、再読の気は今のところ起こらない。 むしろ、年上との恋愛に迷いなく溺れ込む若いミヒャエルに感情移入して読むことは不謹慎だろうか。 新しい出会いから心が大きく揺れ動く様子。 扉の向こうはどんな世界なのか? 高鳴る胸の鼓動に負けまいと勇気を振り絞って開ける扉。 私はそんな、階段を意志をもって登っていくような姿が描かれている前半の方が、文学的で好きだ。

ところで、ハンナが文盲であったことは、ミステリーでいえばトリックのようなポイントであるから、物語をこれから読む人がいたとしたら、タネを明かしてしまうようでたいへん申し訳ないが、このブログは私にとって、自分の考えや経験を文字にして再確認する楽しい作業であることが最優先なので、ご容赦ください。 
..後読者にあまり配慮した書評ではないのです。 スミマセン。
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by Hhisamoto | 2005-09-17 23:41 | ■えせ文化人(本、映画・・)

宮部みゆきの「火車」

この作品が、宮部みゆきの最高傑作だと思う。

e0028123_027198.jpg長い廊下の扉を正面からバンバンと開け放っていくような展開は、ミステリーでありながら小細工のない小気味よさを感じる。 10代で読んだ松本清張の「点と線」の記憶がよみがえってきたのは、新鮮な思いを呼び起こすほどのパワーがある、ということだろうか。 あるいは、 松本清張作品に肩を並べるほどの小説であるということだろうか。

宮部みゆき作品の特徴の1つは、「子供」と「幽霊」の存在にあると思う。
「火車」においても、智という刑事に育てられるいたいけな子供がいる。 宮部みゆきという人は、子供に対して心のこもった目を向けている人なのだと思う。 大人とは別の崇高さを持った存在として見ていることがにじみ出ている。 この小説の中でも、智の存在は話しのプロットにはさして関係ないが、何か重要なメッセージがあるように思えた。

もう1つ面白い点は、犯人を追う刑事の本間は、公傷を負って休職中の身であり、仕事ではなく個人の思いによって行動していることだ。 それも、憎しみや正義感といったモチベーションとは別の次元の思いを抱いている。 また、行方不明となった幼なじみの身を案じて、本間刑事と行動する自動車修理工の本多保の存在もまたユニークだ。 そして、本間は追い詰めた犯人像に対しての最後のカードを保に引かせることになる。

あとがきで、佐高信が絶対に直木賞を取ると思ったと語っているが、実際のところは山本周五郎賞受賞作となっている。 その93年の直木賞は、上期が北原亞以子 『恋忘れ草』 、高村薫 『マークスの山』 、下期が大沢在昌 『新宿鮫 無間人形』 、佐藤雅美 『恵比寿屋喜兵衛手控え』 となった年だった。 この夏、2000年直木賞受賞作である山本文緒の「プラナリア」を読んで、直木賞の選考基準にもばらつきがある気がした。 かっての山本周五郎のように直木賞を辞退する人もいることだし、私も作家や作品の肩書きにとらわれずに本を読むことにしよう。 
ちなみに宮部みゆきは99年に「理由」で直木賞を受賞している。
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by Hhisamoto | 2005-09-11 23:40 | ■えせ文化人(本、映画・・)

山本周五郎の「さぶ」

江戸人情モノの金看板は、やはりこの人をおいていないと思う。

e0028123_2320533.jpgともに表具師の丁稚として育ち、成人するさぶと栄二。 なにごとにも勘がよく、機敏な栄二。 見栄えがなく愚鈍で要領の悪いさぶ。 しかし、人としてどこに優劣があろうか? アリとキリギリス。 うさぎとかめ。 常にこの手の組み合わせはあるが、物語は、成長する人間の奥深さと、さらに女の情念が加えられている。 「世の中、男と女しかいないんだよ」などと、恋愛ごとを知ったかぶって、まとめて片付けようとする時に使うフレーズも、そんな程度のもんじゃないいんだぞ!と教えてくれる。 

また、この話しの重要な舞台に、栄二を人間として成長させることになる石川島の人足寄場(にんそくよせば)があるが、ここは牢獄とも違うし、死ぬまで働く佐渡の金山とも異なる「更正施設」であることが興味を引く。 発案は、あの鬼平こと「長谷川平蔵」であり、物語の中に一度だけその名が登場する。 その人足寄場は、ある程度の自由が与えられ、ルールがあいまいな上に成り立っている社会だ。 

集団をなす人間には、程度のよいルールに縛られることが必要であり、文句や愚痴の一つも言いながら活動した方が全体のバランスを保つことができるものだ。 規制のないフワフワした状態を与えられると、持て余して無駄にしまうのが人間だ。 そんな中にも、力を誇示する者や長いものに巻かれる者、容赦ない不正と「いじめ」は常に存在し、栄二はまさにそこで生き抜いて成長していく。 「寄場でのあしかけ三年は、しゃばでの十年よりためになった。これが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を言いたいくらいだよ」と栄二が言う。 これが長谷川平蔵の意図した大きな差配だと結び付ければ、それもまた興味深い。

シーンとして私の心に残ったのは、物語の後半、すでに社会に出てひとり立ちした栄二が、大きな仕事を請けた喜びを伝えるために、世話になった元締同心の岡安喜兵衛に報告に行く。 栄二が人格者と目する岡安は喜びながらも、問題を抱えて相談に来たわけではないことが分ると、すでに更正した栄二には別段の興味も示さず、今の人足寄場で起こっている問題児のことでうわの空になる。 これが「生きる人間」のあるべき姿のような気がした。

話しの主人公は「栄二」であり、物語の主題とするものを持っているのは、タイトル通り「さぶ」であることも面白い。 現代の山本一力や乙川優三郎もいけてるが、山本周五郎の世界はまだまだ広くて深い。 

余談だが、山本周五郎自身は結婚してからも家庭を顧みることなく、あたたかい家庭は創作活動の敵として、旅館の離れにこもって仕事をし、破滅型文士といわれることに誇りさえもったという。 
..今の私には、楽しい家庭を顧みずにはいられない。
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by Hhisamoto | 2005-09-05 23:09 | ■えせ文化人(本、映画・・)