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『覚有情』 (かくうじょう)

e0028123_1143348.jpgバロン吉元の傑作劇画「柔侠伝」の主人公・柳勘太郎の背中には『覚有情』 という刺青がデカデカと彫ってある。 決して伊達を気取るためにものではない。 六道の凡夫の中において、自身を軽んじ、他人を重んじ、悪をもって己に向け、善をもって他に与えんと念(おも)う者有り。 と漫画の中では語られている。 

『覚有情』 とは、語源を調べると、菩薩や阿修羅に並ぶ厳然とした仏教用語であり、悟りを求めて修行する姿勢を示唆しているらしい。 

この漫画を古本屋から探し出して読んだのが、もう十年も前になるので、流行(はやり)とは程遠いし、相当古い本のはずだ。 

しかし、折にふれて本の記憶と、語られていた言葉がよみがえってくる。 
今日も娘に贈る本の選定を考えていた時に、ふと思い出した。

e0028123_11435482.jpg講道館柔道の創成期に、加納治五郎と袂を分けることになった柔術家の父子から話しが始まり、その後の三世代に渡る男の生き様を描いている大河ものだ。 この漫画、話しとしても相当おもしろいし、今でこそ総合格闘技などと称して一番強いのは・・・などとやっているが、その手の格闘技に関する含蓄がすでにテンコ盛りになっていることに驚かされる。 また、男として、人間としての生き方が描かれている。 おそらく著者のバロン吉元がテーマにしたのはそのあたりであり、柔道や格闘技は男を語る上での味付けと言ってもいいはずだ。 だからこの柔侠伝は、テレビにかじりついている格闘技オタクに向けた安っぽい漫画ではないのだ。

クリスマスイブの夜だというのに、私はいったい何を思い出しているのだろうか?
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by Hhisamoto | 2005-12-24 21:18 | ■えせ文化人(本、映画・・)

ヒサモト洋菓子店 三代目

e0028123_2059536.jpg従弟である久本恭永の四十九日の法要があった。 骨になった身を墓にしまい込む日だ。 ただ、それだけでは寂しいから、来てくれた人たちと宴席を持つのがこの国のならわしだ。

親類縁者と三軒茶屋商店街の人たち60名ほどが集ったその席で、私は従兄として話しをするように求められた。 しかし宴も後半になり、ビールと紹興酒ですっかり酔っ払ってしまった私は、何を言ってるんだかまとまりがつかなくなってしまった。 

おそらく私は、こう言いたかったのだ。

10月31日、午前10時10分 彼が胃ガンでこの世を去りました。
こんなに身にせまる別れを感じるとは思ってもみませんでした。
どうにも感情が抑えきれない。 どう整理をつけたらいいのか、まったく分からない。 
そんな状態でした。 しかし、いにしえの慣習である四十九日とは、さすがによくできたもので、こんな感情も多少落ち着かせてくれるもんだな、といい年をしてやっと分かった思いがしました。

ご周知の通り、彼はヒサモト洋菓子店の三軒茶屋の店を継いだ3代目でした。
彼の人生は、ヒサモト洋菓子店のパティシエとして生きた生涯ともいえます。

ヒサモト洋菓子店のルーツは、我々の祖父にあたります久本晋平が、長崎からカステラの技術をもって広島、大阪へと上り、そして当時、希少価値の高かった洋菓子のさきがけとして東京の渋谷に店を出したことに始まります。 祖父の自伝に昭和15年とありますから、今から60年近く前のことです。

そのころ東急グループの総帥であった五島昇は、東急田園都市計画というものを着手しておりました。 渋谷、三軒茶屋、自由が丘、といった地域に商業都市と住宅都市を作り、それを電車・バスなどの交通網で結ぶという壮大な計画でした。 祖父・晋平はこの東急田園都市計画に賛同して、東急沿線に店を拡げ成功しました。 日本洋菓子協会の初代会長として、日本を代表してアメリカと折衝し、小麦粉の輸入に尽力した話しなども聞いております。

恭永の父・泰弘おじさんの時代には、店舗を三軒茶屋店に集約しなければならない厳しい時がありました。 そして、彼がドイツでの修行から帰国して、実質的に店を引き継ぎました。 彼自身が言っていました。 ドイツでの勉強も貴重といえるけど、やはり日本でお客様と向き合って、実践で身につけたものが大きいと。 季節の果物を地方から仕入れて使ってみたり、コーヒーの豆を変えてみたり、店を禁煙にしてみたり、テレビに出たり、試行錯誤、悩みながら、愛される店を作り上げるに至りました。

つらいことは忘れたいという考え方もありますが、反面私は、自分の知りうる限りの彼を、ことあるごとに語っていきたい、と思っています。 彼と共に一旦「ヒサモト」の看板は下りることになりますが、私はこんな話しを滔々とするおやじになってやろう思っています。

それから、石井の善彦おじさん、千野の総太郎おじさん、ここに至るまでの特殊治療のこと、病院のこと、店を閉じ「マツキヨ」に到るまでのご支援のこと、彼からも聞いておりました。 感謝と大きな恩を感じずにはいられません。

・・・・と、こんなことを話したかったのだと思う。
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by Hhisamoto | 2005-12-17 23:16 | My room

リリー・フランキー「東京タワー」

e0028123_22141533.jpgこの「東京タワー」を読んで思い出した本がある。
私が30歳前後に読んだ石川好さんの「ストロベリー・ロード」という自伝小説だ。

1988年に出版された「ストロベリー・ロード」は、文筆家の石川好さんが、自ら暮らしたカリフォルニアのストロベリー農場での青春期の話しを記したものだった。 私が同じくカリフォルニアでコンピュータソフトの仕事をしていた時に、ロスのダウンタウンにあった紀伊国屋で、円換算以上のマージンがのった金額で入手した記憶がある。 

当時、アメリカというどでかい国の片隅で心細い想いをしていた独身の私は、この本にずいぶんと励まされた。 言語に始まるあらゆる壁に対しての閉塞感は、もうひとつ何かの希望を失ったら耐えられないのではないか、と考えてしまうほど私の前に高くそびえ立っていた。 しかし、まったくの同じ土地で、先達である石川好さんが同じように悩み抜き、それを糧に今があることを赤裸々に語ってくれていた。 

その語り口の特徴は、目の前に繰りひろげられる現実を書き、それに対して自分はこう思う。 自分はこのように考える。 と感じるままを、あるいは意思を明確に表していることだ。 この点がリリー・フランキーの「東京タワー」と通じるところがある。 石川好も、リリー・フランキーの「東京タワー」も、どちらも自分の心の感じたままを表現している。 世の中の人が何を言おうと、自分の思いはこうだ! という強い言い切りがある。 リリー・フランキーは短編より長編で本領を発揮している、と教えてくれた方がいたが、その通りだった。

めまいを覚えるほどに立ちはだかる、どうにもならない現実を
「ぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐる。」 と彼は表現する。

そして彼は、母を敬慕する思いを力強くどこまでも表現する。 

「オトンの人生は大きく見えるけど、オカンの人生は十八のボクから見ても、小さく見えてしまう。 それは、ボクに自分の人生を切り分けてくれたからなのだ。」...
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by Hhisamoto | 2005-12-11 17:57 | ■えせ文化人(本、映画・・)

リリー・フランキー「美女と野球」

渋谷南平台で、久しぶりに我が弟と二人で飲んだ時、「中島らもの後を継ぐ天才的なエッセイを書くのがリリーフランキーだよ!」と教えられた。 

e0028123_23231277.jpg私の中で、中島らもはかなりの標高に位置するお方だ。 その後継者が現れたとあっては読まずにいられない。 さっそく翌日、リリー・フランキー「美女と野球」なる文庫本を購入し読み始める。 現在、通勤時間が規則正しく1時間ある労働者の私は、この手の本だと3~4日で読んでしまう。 読みながらあれこれ浮かんできた。 確かに中島らも調ではある。 しかしトーンに違いがある。 まずは、このリリー・フランキーなる方の話しは下ネタどころの騒ぎではない。 上から下へさがって、さらに中に食い込むようなエグイ世界観だ。 みんなの前で裸になった上に尻の穴を見せるようなレベルである。 (おっと、すでに感化されたような表現を使ってしまった。)

こういう文章を公に向かって書ける人は、住んでいる領域が違うような気がする。 立っている位置がすでに通常感覚の人間とは違う次元にあるのだから、そんな所から投げつけられる球は、我々には出どころの分からない魔球にしか映らない。 だから面白い。 

私の仲間で、ボクシングの日本チャンピオンになった男がいた。 大学の頃からアマチュアボクシングで戦績を重ねていたことと、まじめな性格を併せ持ち、オーソドックスで基本に忠実な、いわゆる「いいボクジング」ができる男だった。 しかし、それだけではプロで勝ち抜いていくことは容易でなかった。 壁にぶつかり、なかなか越えられないでいるように見えた。 悪いところは特にない。 だけど何かが足りない、何かが必要と悩み、もがいていた。 「自分の殻を破る」というフレーズがあるが、人間はそう簡単に変われるものではない。 そんな彼が日本チャンピオンに挑戦するチャンスを得た。 殻の中の従来の自分では勝つことはできない、と彼の中の動物的な感覚が悟ったのだろう。 彼は自ら殻を爆破し、自分を変えた。 そしてチャンピオンになった。 すごい男だ。 しかし、自らの力で自分を変えたその男は、ボクシングを引退した後も、殻を破ったその領域から戻ってはこない。 ミュージシャンとか、芸術的な奇人とか言われながら今も町をねり歩いている。

私のような凡人にはこういったまねはできない。 世の中の平均的なレンジを考えつつ、自分のポジションをとってしまう。 多少の研究と努力で、このポジションを向上させることができることは経験済みだが、自分が平均的なレンジの外にいることを知れば歩みが鈍る。 また、興味の対象以外に労力を割けなくなる時があり、気づくと世の中のレンジの下の方にいることがある。 これでは情けないので呼吸しやすい位置まで自分をあわてて戻す。 

私の生きるための呼吸のしかたは、おおむねこんな程度だ。
それでも、ほどよいレンジを見極め、その位置付けを確保することは簡単なことではないし、「ふつう」というバランスのとれた人間らしい居心地をキープすることは重要なことだ、などと言ってしまうほどの極めつけの凡人だ。 
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by Hhisamoto | 2005-12-09 00:19 | ■えせ文化人(本、映画・・)

築地「中栄」と銀座「ナイルレストラン」

夕方、築地にて仕事を終えた。 ここからカレーを食いに行くことを考えると、近くではインドカレー「中栄」という老舗が築地市場の中にある。 中栄は市場で働く者のためにある食堂なので、午後2時で閉まっていることは知っていた。

中栄の名物メニューに「合いがけ」¥600がある。 例えばビーフカレーと印度カレーを、山脈のように盛られたゴハンの両側からかける。 ハヤシライスを組み合わせることもできる。 その「合いがけ」をジャンパー姿の市場の若い衆に並んで、店の活気と共にいっきに食う。 味のウンチクは無用。 口にかき込むように食らうのだ。 「ごっそさん!」の声と共に、600円はカウンターの上にパシッと置く。 手渡しはしない。 「魚河岸のまん中でカレーライスを食ってやったぞ」とばかりに、活きのいい魚を横目に大またで中央卸売市場の門を出てくれば、非日常的な満足感に浸ることができるというものだ。

今日のところは、趣向を少し変えて、「銀座スイス」のカツカレーをめざして歩くことにした。 少し冷える季節ではあるが、晴海通りを行き、道路を隔てたところから夕暮れに映えた歌舞伎座を見れば、なかなかの景観だ。 海外からの観光客風金髪オネーサンが、地方からのおのぼりさん風おばさんと、肩を並べて小型のデジカメで歌舞伎座を撮っていた。 私も肩を並べたい心境になったが、デジカメを持っていない。 高精度デジカメの付いたケータイが欲しくなった。 

e0028123_017545.jpgさらに東銀座を行くと、昭和通りにカレー屋らしき看板を発見。 「銀座ナイルレストラン」だ。 ここの2代目オーナーG.M.ナイルさんは、マスコミ出たがりオヤジとのこと。 しかし、先代から日印友好に大きな功績を持ち、カレーの素材は今もインド直輸入と聞いていたのを思い出し、今日のカレーはこのお店に予定変更!

店に入ると、腹のせり出したインド人が「どうぞどの席でも」と話しかけてくる。 店は決して広くないが老舗らしいイイ感じだ。 向かいの席には、タレント格闘家のボビーに似た黒人が彼女と楽しそうにカレーを食べていた。 定番というチキンカレーを注文。 マハラジャビールを飲みながら待つこと10分、さきほどの腹の出たインド人がカレーを運んできて、その場でフォークとナイフを使ってチキンの骨を器用に取り除いてくれる。 ハズレを覚悟で「あなたがナイルさん?」と聞いてみると、「ぼくは社長じゃない。 ぼくはただの労働者。」との返事。

さすがにいい味にまとまっているインドカレーだと思うが、落ちつきすぎていてスリルがない、と言ったら失礼なのだろうか。 マッシュポテトのようなものがライスとは別に盛ってあるのが特徴で、これがあるので「混ぜて食べてね」というのだと理解した。 店内の壁画も目を引くものがあり、お腹の出たインド人労働者といっしょに記念写真でも撮りたかった。
やっぱり高精度なデジカメの付いたケータイを買おう。 
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by Hhisamoto | 2005-12-08 22:00 | ■B級グルメ