築地「中栄」と銀座「ナイルレストラン」

夕方、築地にて仕事を終えた。 ここからカレーを食いに行くことを考えると、近くではインドカレー「中栄」という老舗が築地市場の中にある。 中栄は市場で働く者のためにある食堂なので、午後2時で閉まっていることは知っていた。

中栄の名物メニューに「合いがけ」¥600がある。 例えばビーフカレーと印度カレーを、山脈のように盛られたゴハンの両側からかける。 ハヤシライスを組み合わせることもできる。 その「合いがけ」をジャンパー姿の市場の若い衆に並んで、店の活気と共にいっきに食う。 味のウンチクは無用。 口にかき込むように食らうのだ。 「ごっそさん!」の声と共に、600円はカウンターの上にパシッと置く。 手渡しはしない。 「魚河岸のまん中でカレーライスを食ってやったぞ」とばかりに、活きのいい魚を横目に大またで中央卸売市場の門を出てくれば、非日常的な満足感に浸ることができるというものだ。

今日のところは、趣向を少し変えて、「銀座スイス」のカツカレーをめざして歩くことにした。 少し冷える季節ではあるが、晴海通りを行き、道路を隔てたところから夕暮れに映えた歌舞伎座を見れば、なかなかの景観だ。 海外からの観光客風金髪オネーサンが、地方からのおのぼりさん風おばさんと、肩を並べて小型のデジカメで歌舞伎座を撮っていた。 私も肩を並べたい心境になったが、デジカメを持っていない。 高精度デジカメの付いたケータイが欲しくなった。 

e0028123_017545.jpgさらに東銀座を行くと、昭和通りにカレー屋らしき看板を発見。 「銀座ナイルレストラン」だ。 ここの2代目オーナーG.M.ナイルさんは、マスコミ出たがりオヤジとのこと。 しかし、先代から日印友好に大きな功績を持ち、カレーの素材は今もインド直輸入と聞いていたのを思い出し、今日のカレーはこのお店に予定変更!

店に入ると、腹のせり出したインド人が「どうぞどの席でも」と話しかけてくる。 店は決して広くないが老舗らしいイイ感じだ。 向かいの席には、タレント格闘家のボビーに似た黒人が彼女と楽しそうにカレーを食べていた。 定番というチキンカレーを注文。 マハラジャビールを飲みながら待つこと10分、さきほどの腹の出たインド人がカレーを運んできて、その場でフォークとナイフを使ってチキンの骨を器用に取り除いてくれる。 ハズレを覚悟で「あなたがナイルさん?」と聞いてみると、「ぼくは社長じゃない。 ぼくはただの労働者。」との返事。

さすがにいい味にまとまっているインドカレーだと思うが、落ちつきすぎていてスリルがない、と言ったら失礼なのだろうか。 マッシュポテトのようなものがライスとは別に盛ってあるのが特徴で、これがあるので「混ぜて食べてね」というのだと理解した。 店内の壁画も目を引くものがあり、お腹の出たインド人労働者といっしょに記念写真でも撮りたかった。
やっぱり高精度なデジカメの付いたケータイを買おう。 
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# by Hhisamoto | 2005-12-08 22:00 | ■B級グルメ

神保町・キッチン南海のカツカレー

e0028123_23432189.gif神保町すずらん通り、あこがれの「キッチン南海」にてカツカレーを食う。

有田芳生さんという文筆家が、『酔醒漫録』という随筆の中で絶賛する魅惑のカツカレーをぜひ一度食べてみたかったのだ。 有田芳生さんはテレサ・テンが亡くなった時、すでに彼女の伝記小説を書く約束をしていたそうで、テレビでも「なんとしても書いて、彼女との約束を果たす!」といきまいていたのを覚えているが、10年経った今年の春、テレサ・テンの生涯を描いた『私の家は山の向こう』という本を出版し、彼女との約束を果たした方だ。

ここのカレーは、洋食屋のカレーらしい「ソースカレー」だ。 
色が黒く、ソースを想わせる。 おそらく製法もソースを作る手法に近いのだと思う。 
このてのカレーを私は勝手に「ソースカレー」と呼んでいる。

お昼どきに行けば必ず長蛇の列が店の外にできているので、今日のように外した時間にこなければ入れない。 いわゆるスパイスのたっているカレーではないが、書店の街で愛されているインパクトの強いこのカツカレーを、私も好きになりそうだ。
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# by Hhisamoto | 2005-11-29 22:54 | ■B級グルメ

アスリート高橋尚子の表現力

e0028123_2239284.jpg生きる力の証明といえる走り。
走ることでの人生表現。
2005東京国際女子マラソンは、高橋尚子に感動させられた。

一度頂点を極めた人間にも、マスコミや世間は容赦なくNEXTを求める。 昨日の応援は明日には呵責となる現実。 そんな疎外感と戦い、言い訳せずに、小出監督から独立し、自らを追い込んで戦い、そして高橋尚子は勝った。

国立競技場のトラックに独走してきた彼女を見た何万もの観客は、驚きと感動の歓声をあげたに違いない。 おそらく競技場全体がゆれるようなどよめきに包まれたはずだ。 さらに高橋尚子は、インタビューのマイクを使って、「暗闇にいる人も、夢と目標を持って頑張ることで、毎日の生活に張りが生まれる」と、目標を持つ生き方を日本の老若男女に説いてしまった。 42キロを走った直後に。

テレビで観ていたが、東京で行われていると思うと、ライブで見なかったことが悔やまれた。 沿道で応援してみたかった。 おじさんも、ひと言、彼女の背中に応援の言葉を掛けたかった。

ボクシングの辰吉丈一郎は1992年、ビクトル・ラバナレス(メキシコ)に負けてWBC世界バンタム級タイトル失った。 それから5年後の1997年にシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)からタイトルを奪い返すまでの道程には壮絶な葛藤があったに違いない。

水泳の岩崎恭子が1992年にバルセロナオリンピック200M平泳ぎで、五輪競泳史上最年少金メダリストになったのは14歳と6日だった。 岩崎恭子が金メダリストの重圧を感じるのは、皮肉にもその後の競技人生だった。 頂点を極めたからといって、引退するには彼女は若すぎたからだ。 それでも彼女は重圧と戦い抜き、4年後のアトランタオリンピック日本代表となり、すべてを出し尽くす泳ぎで10位となった。

自分自身と決着をつける戦いに挑む。
おじさんは、こんな姿を見せてくれるアスリートが大好きだ。 乾杯!

-------------- 中日新聞 -------------- 
不在の間に日本記録は塗り替えられ、アテネ五輪は野口みずきが金メダル。 今年5月には、33歳の誕生日の直後に小出義雄監督から独立し、練習パートナーら同年代のスタッフ3人を迎え「チームQ」を結成。絶対的指導者なしで練習してきた。 今回も多くの指摘があった。 「高橋に出場をやめるよう言える人間がチームQにはいない」

失敗していたら、チームQの在り方が問われただろう。 
肉離れが悪化していれば、残りの競技生活に影を落としたはずだ。 しかし、これ以上はない劇的再起。 「4年間の所属契約をいただいているし、プロとして、3年後の大きな試合を頭に入れて今回をステップにしたい」。 北京五輪を目指すという言葉も説得力を持った。
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# by Hhisamoto | 2005-11-20 00:15 | ■おやじスポーツ

小林ボクシングジムで

e0028123_21185426.jpg仕事も順調にこなし、昼は神保町の「キッチン南海」にてカレーライス(¥500)を食う。
やはりこれはソースカレーだ。 
間違いナイ!

夜7時からは金子ジムの後輩・花谷に誘われて小林弘ボクシングジムへ行く。
花谷成之は、今は左官業の株式会社花谷組二代目を務める男だ。 私が金子ジムでトレーナーをしているときに、当時高校生の詰め襟姿で入門してきた。 その後、私は渡米してしばらく会えずにいたが、その間にプロ入りしてジュニアウェウター級で闘っていたことを知った。  

武蔵境の駅で待ち合わせて、駅から5分ほどのジムに案内してもらう。
ジムに着くと小林会長の顔を見つけ、紹介してもらい挨拶する。 花谷は、私を人に紹介する時はいつも「久本さんは、自分が最初にボクシングを教えてもらった人です」と言ってくれる。

小林弘さんは、元世界ジュニアライト級チャンピオン。 1967年、日本人同士初の世界タイトルマッチでチャンピオン沼田義明を12回KOで下し世界王座獲得。 以降、6回に渡り王座を防衛し当時の日本記録を樹立した方だ。 ボクシング通には、あのロベルト・デュランと闘った男としても知られている。

そんな勇壮な面影も見えないほど、今の小林会長は柔和な方だ。 
私が金子ジムの出身で、久しぶりにサンドバックを叩きたいので、よろしくお願いしますと言うと、「おお、遊んでってよ!」と快い返事。 花谷の人柄が愛されていることもうかがえ、嬉しい気持ちになる。 

靴までお借りして、久しぶりにサンドバックを叩いた。 ごきげん!
「また、来ますのでよろしくお願いします!」との挨拶にも、会長は快い返事をくれる。

久々にボクシングジムで汗を流した気分のよさで、少々ハイテンション!
家に帰り、調子にのって、旭化成株1,000株をネットで買いつけた。
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# by Hhisamoto | 2005-11-09 23:05 | ■おやじスポーツ

ジョン・アーヴィング 「未亡人の一年」

John Irving 'A Widow for One Year'
ジョン・アーヴィングというアメリカの作家は、1978年に発表した半自伝的小説「ガープの世界」で全米図書賞の小説部門ペーパーバック賞を受賞して以来、やたらと長い小説を書きたがる作家だ。 昨年に買った「サイダーハウス・ルール」という本も上下巻の長編で、実はまだ読みきれていない。 
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長いだけでなく、独特の表現でひとつの動きを細かく描写する。 これがともすると、うざったい重さを感じることがある。 翻訳というフィルターを通さずに読めれば、また違った感触を得るに至ったのかもしれない。 なぜこの人が現代アメリカ人作家の第一人者なのか、まだ私には理解できていない。 
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# by Hhisamoto | 2005-10-22 00:34 | ■えせ文化人(本、映画・・)

第一回金子ジムOB会

10月2日は、金子ジム創立40周年を兼ねたOB会が下北沢で開かれた。

第18代日本フライ級チャンピオンの松本芳明さん、第9代日本J.ライト級チャンピオンの岩田健二さん、そして村田英次郎さん、カシアス内藤さんら元チャンピオンから私のような者まで、世代を越えた顔ぶれ約70人が一同に集まるという華やかな会だった。

「青春の一時期を金子ジムですごした仲間達で語り合えたら..」と田口さんがマイクを握る。 25年前の当時日本バンタム級一位であり、現在は建設業の社長を務める田口さんの進行で和やかに進んだ。 語り継がれるエピソードをいくつも持つツワモノや、見分けがつかなくなるほど太った者などとの再会には、話題が尽きなかった。

そして、金子繁治名誉会長夫妻を招いて、感謝の意を込めた花束が渡された。
心が暖まる日だった。

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現在、横浜でジムの会長
となったカシアス内藤さんと。


私は1980年、20歳前後の約5年間を、下北沢の金子ジムと共にすごした。 
当時の私は大学受験に失敗し、専門学校で会計を勉強する身だったが、高校生時代同様に、なじめないことが多く、身をもてあましていた。 劣等感のようなものもあったが、同時に「自分には何かできるはず」という、若さからくる根拠のない自信のようなものも持っていた。 そして、「何かしなければいけない」という想いは、何も持っていない自分を呵責し、苦しめ、「強くなければ、強くならなければ」というエネルギーに変わり、金子ジムの門を叩かせた。 

ボクシングが好きだったわけでもなく、知識があったわけでもない。 度胸試しのような勢いで入門した当時の金子ジムには、登り竜の勢いを持つバンタム級のホープ村田英次郎、再起に立ち上がったミドル級の元東洋チャンピオン・カシアス内藤がいて、彼らを見守るトレーナー・エディタウンゼントや、ノンフィクション作家・沢木耕太郎の姿があった。

入門して数ヶ月後、僕ら練習生に「金子ジム」の名前が入った半纏が配られ、東洋太平洋タイトルマッチの興業があるから、会場の応援垂れ幕の設置や案内の手伝いをするように言われる。 何のことやら分からずに、先輩たちについて回り、後楽園ホールを右往左往しているうちに試合が始まる。 6回戦、8回戦と、ジムで目にするプロの先輩たちが、研ぎ澄まされた面持ちでリングに上がり、勇ましい闘いを見せる。 ダウンを喫してからも食いつくような形相で立ち上がり、向かっていく者がいた。 惜しみない声援と容赦ないヤジが飛び交う。 物々しいヤクザ風の男のだみ声。 リングサイドクラブからの金一封を告げるアナウンス。 勝利を告げられる者、くやしがりながらリングのステップを降りる者。 パンチを受けた際の汗しぶきが光線に反射して鮮明に目に焼きついた。 

この日、村田英次郎はファイナルで、韓国人チャンピオンを判定で破り東洋太平洋バンタム級の新チャンピオンとなった。 1987年12月だった。 それから約5年、私は常に英次郎さんの輝きを見つめながらこの時代をすごし、そして英次郎さんの引退を見て、企業へ就職した。
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# by Hhisamoto | 2005-10-15 01:10 | ■おやじスポーツ

吉祥寺リトルスパイスの「ブラックカレー」

渋谷で生まれ、駒場東大前で育った私にとって、京王・井の頭線はもっとも親しみのある「足」であり、とりわけ下北沢と吉祥寺の街は思い出深い。 

その吉祥寺へは現在、月に1度の頻度で、小学3年の長女を山田歯科という小児専門の歯科医のもとへ通わせている。 医院長の山田氏は、私がアメリカでソフトウェアの仕事をしていた1980年代の後半(私が20代の後半)に、氏が視察旅行で日本から来られた際にお会いした先生であり、その後私と同じくドイツの人智学者・シュタイナーに傾倒した経緯を持っている。 氏は人間本来が持つ治癒力やあるべき役割というものを最大限に尊重し、それを歯科医療に取り入れている。 まず歩くこと。 子供の成長期には自分の足で歩かせ、それによってあごの発育を促すことの重要性を説く。 医院を訪れるとすぐに気づくことになるが、オープンで教育的な治療を行っている。 歯の磨き方や食事の与え方など、子供に必要な要素・親に必要な要素を、それぞれに指導をすることを忘れない。 予防医療などという言葉も出てきているが、どこまで実践されているかが疑わしい中で、医療本来の姿を目指している方であると思っている。 今回、長女の歯列のことで氏のもとへ通うことになったが、「求めるものは、出会えるもの」を感じる嬉しい再会だった。

今の国分寺の自宅からは、中央線で下車する吉祥寺だが、私にとって長女との貴重なデート時間だ。 成蹊大学そばの山田歯科医院からの帰り道、東急百貨店脇にある「リトルスパイス」というカレーハウスに立ち寄った。 ここのブラックカレーなるものの噂を耳にしており、一度機会があれば食してみたかったのだ。 娘には悪いが、私の趣味に付き合わせることにした。

夕食時間前の5時ごろに入店したのが悪かったのか、センスのない民放ラジオが大音量で鳴り響き、おまけに狭いカウンターの中ではマスター風の女性と若い店員が言い争って何やら険悪なムード。 まだ客を迎える時間ではありませんよ、と言われているようで雰囲気は最低。 

私が予定通り「ブラックカレー」900円を、娘には「シーザーサラダ」420円をオーダーする。 カレーの方は大丈夫だろうか? と不安げな私に出されたブラックカレーの見栄えはすこぶる良かった。 紫がかったのオニオンスライスと三つ葉の緑の色添えが、濃いカレーの色とコントラストをきかせていて、写真に撮りたい衝動にかられる。 ゴハンはカレー用にはもう少し固めがほしいが、カレーそのものは辛さと香りの調和がとれていて、スパイスが十分に味わえる。 じわじわと湧いてくるような引き締まった辛さと、カレーの油気が口にまったく残らない不思議なおいしさが味わえる。 もちろん胃にもたれる感じもない。 こんな食後感は初めてだ。 

インパクトのある味なら、淡路町「トプカ」のインドカレーのむせるような辛さも相当なものだが、そういった直撃型のインパクトとは対極にあるものを感じた。 スパイスは脂溶性があるので、香りやコクを油に移して媒体にするのが一般的だが、何か違う調理方法なのだろうか、などと考えさせられてしまう。 そこで、カウンターの女性に「このブラックは何の色なんですか?」と婉曲に尋ねてみたが、教えられないとあっさり断られた。 
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# by Hhisamoto | 2005-10-09 21:43 | ■B級グルメ

日本女子オープン選手権の宮里藍、諸見里しのぶ、不動裕理

10/2(日)宮里藍が、メジャーの大会第38回日本女子オープン選手権で、通算5アンダーの283で初優勝した。 20歳3カ月での優勝となり、樋口久子の23歳2カ月を上回る史上最年少記録とのこと。 また、宮里はツアー通算10勝目となったのも最年少記録だそうだ。

記録はもちろんみごとだが、私が感じ入ったのは宮里の華やかさだ。
大会の最終日には、新チャンピオンの宮里を見ようと、大会最多の2万1千人を超える大ギャラリーを集めての最終ラウンドとなったそうだが、圧巻は最終18番ホールだ。 主催者がフェアウェイを開放し、ギャラリーが一斉にコースになだれ込み、宮里の後ろを共に歩き始めるというシーンができた。 真紅のゴルフウェアに身を包んだ宮里が18番ホールへ向かう姿を、カメラワークが真正面から大きくフォーカスすると、その肩越しから大ギャラリーの群像が歩調を合わせるかのように追随する絵となった。 前方のクラブハウスからは、勝利を確信したジャンヌ・ダルクを先頭に、大軍が凱旋してきたかのようにも見えたのではないだろうか。 日本でこんな映画のようなゴルフシーンを見せてもらえるとは思わなかった。

e0028123_21542241.jpgまた、通算イーブンパーで5位に入ったのが諸見里しのぶ19歳だ。 この子、なんとプロデビュー戦がこのメジャー大会で、しかも5位に入った。 マスコミ諸氏は、「ホロ苦いプロデビュー戦となった..」と書くが、あのダイナミックなプレーとこの成績になぜ苦言が寄せられるのか、私には理解できない。 宮里藍との比較なのかもしれないが、決して引けをとるものではないと思う。 インタビューでは「初めてのお給料が楽しみ」と可愛らしいことも言うらしい。 バレーボールの益子直美が20歳を越えてからどんどん美しくなったように、諸見里のルックスはますます洗練されて美しく成長していくだろう。 

前年度チャンピオンの不動裕理は、通算10オーバー21位タイに終わった。
しかし後輩に座を譲る歳でもないし、まだまだ活躍してくれると思う。 この人はルックス云々ではなく、スポーツに対して勝負する人間としての真摯なものを見せてくれる傑出したすばらしいプレーヤーだと思う。 その魅力は若手のそれとはまったく種類の違う興味深いものだ。 このまま若手の時代がくると思ったら大間違いだ。 面白い!
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# by Hhisamoto | 2005-10-08 22:59 | ■おやじスポーツ

インド式カレー「夢民」で見た夢

「夢民」というお店でポパイカレーを食べた。
このお店、住所は大久保だが、戸山公園わきにあるので高田馬場といった方がよいところにある。 店内は広く、テーブル席もあると思いきや、このお店はご夫婦らしきお二人が12名ほど座れるカウンターのお客のみに、その場でつくるカレーを食わせる店らしい。 

それに気づいたのは、昼飯時の直前にとまり木のようなカウンター席に座った私が、混み合ってきたので様子を見ようとふと後ろを振り返った時だ。 てっきりテーブル席でオーダーを待っていると思ったお客達は、一昔前の床屋の待合いのように壁際の長イスに背中をつけて、カウンターでカレーを食しているお客達の背中を見つめていた。 あの広いフロアスペースを客席に使っていないのは、一品ずつ丁寧にカウンター席のお客の顔を見ながらサーブしようとする店主の心意気なのか、あるいは居抜きで借りたこの店舗が広すぎるだけなのだろうか。 

おそらくこのお店の前身は、バドワイザーのネオンサインが小粋に光り、ナポリタンスパゲティーなどを食べさせ、カウンターでは若者相手にカクテルやビールを出していたお店だったのではないだろうかと想像をはたらかせてしまった。

私が注文したのは、ホウレンソウ、ホールトマト、タマゴを使ったポパイカレーだ。
カレーの辛さもオーダーできるので、中辛の域に属する番号を頼んだ。 辛いのは好きだが、あまり辛すぎると味に気がいかなくなるので、控えるようにしている。 広いオープンカウンターなので、客はカウンター内で調理しているオヤジさんのうしろ姿を足元まで見ながら出来上がりを待つことになる。 2種の小型フライパンを巧みに使い、しきりに調理スプーンをGABAN缶に運ぶ。 野菜もふんだんに使い、最後にソースポットに盛る姿は文字通りの手作りだ。 

味の調和もよく、バランスのとれたスパイスの組み合わせをもっていて、私にはとてもおいしく感じられた。 しかし、外看板に「インド式カレー」とあるのはビミョーなニュアンスだ。 インドカレー特有のクミンの強烈な香りはこないし、もちろんインド人スタッフもいない。 インド式とは何を指しているのだろうかと、余計なことを考えてしまった。

オヤジさんの手作りの姿と、カウンターの作りが気になった私は、カレーもカクテルのように、とまり木に座ったお客のリクエストに応じて作る姿をイメージしてしまった。
(たとえばこんなふうだ)
「いらっしゃいませ、何にしましょうか」
「そうね、今日はいい事なかったから、パァーと目の前が開けるようなパンチの効いたやつがいいな。 うん、色にたとえるなら、冴えたオレンジ色っていうところかな~」
「わかりました、おまかせ下さい」と言って、やおらナベを振るいはじめるのだ。

ウン、こんなカレー屋があってもいい! 絶対ありだ。
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# by Hhisamoto | 2005-09-30 21:57 | ■B級グルメ

ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」

ドイツ文学というものに私はあまりなじみがなかったが、1995年に出版されたこの「朗読者」はドイツで大ヒットした後、世界の20ヶ国語以上に訳され、特にアメリカでは200万部を超えるミリオンセラーになったという。 

e0028123_23354130.jpg物語は大きく前半と後半に分かれる。 
前半では、主人公ミヒャエルが15歳で、倍以上年上の女性ハンナに恋をして、身も心もハンナに浸りきる様子が描かれている。 また、題名の通り、ミヒャエルがハンナに、ベットで本の朗読をすることが習慣のようになる。 その頃のミヒャエルはハンナが文盲であることに気づいていない。 ハンナも文盲であることを隠すことが生きる上での基本になっている。 そんな知識に飢えたハンナがミヒャエルに本の朗読を求め、ミヒャエルもそれに応える。 
そして、突然姿を消してしまうハンナ。

後半は、そのハンナが被告人という形で成長したミヒャエルの前に現れる。 法学生の立場で裁判を傍聴する形でハンナを見つめるミヒャエル。 ハンナの係わった罪は、ドイツのかかえる大きなテーマであるナチス時代のアウシュビィッツであり、その収容所の看守として従事していたことだ。 ハンナは有罪となり刑務所で過ごすが、やがてミヒャエルはそのハンナに自分が朗読したテープを送り続けるようになる。 ハンナはそのテープを再生機が壊れるまで聴き続ける。 そして、あれほど頑なに閉じていた文盲であることの殻を自ら破りすてることになる。 

ユダヤ系イギリス人の評論家で、日本にも何度か訪れたことのあるジョージ・スタイナーという人は、この本を二度読むべし、と言っているそうだ。 きっと「一読では読み取れない含蓄の深さが、二度目には分かるはずだよ」といってくれているのだろうが、後半は結構重たいものを感じるので、再読の気は今のところ起こらない。 むしろ、年上との恋愛に迷いなく溺れ込む若いミヒャエルに感情移入して読むことは不謹慎だろうか。 新しい出会いから心が大きく揺れ動く様子。 扉の向こうはどんな世界なのか? 高鳴る胸の鼓動に負けまいと勇気を振り絞って開ける扉。 私はそんな、階段を意志をもって登っていくような姿が描かれている前半の方が、文学的で好きだ。

ところで、ハンナが文盲であったことは、ミステリーでいえばトリックのようなポイントであるから、物語をこれから読む人がいたとしたら、タネを明かしてしまうようでたいへん申し訳ないが、このブログは私にとって、自分の考えや経験を文字にして再確認する楽しい作業であることが最優先なので、ご容赦ください。 
..後読者にあまり配慮した書評ではないのです。 スミマセン。
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# by Hhisamoto | 2005-09-17 23:41 | ■えせ文化人(本、映画・・)

宮部みゆきの「火車」

この作品が、宮部みゆきの最高傑作だと思う。

e0028123_027198.jpg長い廊下の扉を正面からバンバンと開け放っていくような展開は、ミステリーでありながら小細工のない小気味よさを感じる。 10代で読んだ松本清張の「点と線」の記憶がよみがえってきたのは、新鮮な思いを呼び起こすほどのパワーがある、ということだろうか。 あるいは、 松本清張作品に肩を並べるほどの小説であるということだろうか。

宮部みゆき作品の特徴の1つは、「子供」と「幽霊」の存在にあると思う。
「火車」においても、智という刑事に育てられるいたいけな子供がいる。 宮部みゆきという人は、子供に対して心のこもった目を向けている人なのだと思う。 大人とは別の崇高さを持った存在として見ていることがにじみ出ている。 この小説の中でも、智の存在は話しのプロットにはさして関係ないが、何か重要なメッセージがあるように思えた。

もう1つ面白い点は、犯人を追う刑事の本間は、公傷を負って休職中の身であり、仕事ではなく個人の思いによって行動していることだ。 それも、憎しみや正義感といったモチベーションとは別の次元の思いを抱いている。 また、行方不明となった幼なじみの身を案じて、本間刑事と行動する自動車修理工の本多保の存在もまたユニークだ。 そして、本間は追い詰めた犯人像に対しての最後のカードを保に引かせることになる。

あとがきで、佐高信が絶対に直木賞を取ると思ったと語っているが、実際のところは山本周五郎賞受賞作となっている。 その93年の直木賞は、上期が北原亞以子 『恋忘れ草』 、高村薫 『マークスの山』 、下期が大沢在昌 『新宿鮫 無間人形』 、佐藤雅美 『恵比寿屋喜兵衛手控え』 となった年だった。 この夏、2000年直木賞受賞作である山本文緒の「プラナリア」を読んで、直木賞の選考基準にもばらつきがある気がした。 かっての山本周五郎のように直木賞を辞退する人もいることだし、私も作家や作品の肩書きにとらわれずに本を読むことにしよう。 
ちなみに宮部みゆきは99年に「理由」で直木賞を受賞している。
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# by Hhisamoto | 2005-09-11 23:40 | ■えせ文化人(本、映画・・)

山本周五郎の「さぶ」

江戸人情モノの金看板は、やはりこの人をおいていないと思う。

e0028123_2320533.jpgともに表具師の丁稚として育ち、成人するさぶと栄二。 なにごとにも勘がよく、機敏な栄二。 見栄えがなく愚鈍で要領の悪いさぶ。 しかし、人としてどこに優劣があろうか? アリとキリギリス。 うさぎとかめ。 常にこの手の組み合わせはあるが、物語は、成長する人間の奥深さと、さらに女の情念が加えられている。 「世の中、男と女しかいないんだよ」などと、恋愛ごとを知ったかぶって、まとめて片付けようとする時に使うフレーズも、そんな程度のもんじゃないいんだぞ!と教えてくれる。 

また、この話しの重要な舞台に、栄二を人間として成長させることになる石川島の人足寄場(にんそくよせば)があるが、ここは牢獄とも違うし、死ぬまで働く佐渡の金山とも異なる「更正施設」であることが興味を引く。 発案は、あの鬼平こと「長谷川平蔵」であり、物語の中に一度だけその名が登場する。 その人足寄場は、ある程度の自由が与えられ、ルールがあいまいな上に成り立っている社会だ。 

集団をなす人間には、程度のよいルールに縛られることが必要であり、文句や愚痴の一つも言いながら活動した方が全体のバランスを保つことができるものだ。 規制のないフワフワした状態を与えられると、持て余して無駄にしまうのが人間だ。 そんな中にも、力を誇示する者や長いものに巻かれる者、容赦ない不正と「いじめ」は常に存在し、栄二はまさにそこで生き抜いて成長していく。 「寄場でのあしかけ三年は、しゃばでの十年よりためになった。これが本当のおれの気持だ、嘘だなんて思わないでくれ、おれはいま、おめえに礼を言いたいくらいだよ」と栄二が言う。 これが長谷川平蔵の意図した大きな差配だと結び付ければ、それもまた興味深い。

シーンとして私の心に残ったのは、物語の後半、すでに社会に出てひとり立ちした栄二が、大きな仕事を請けた喜びを伝えるために、世話になった元締同心の岡安喜兵衛に報告に行く。 栄二が人格者と目する岡安は喜びながらも、問題を抱えて相談に来たわけではないことが分ると、すでに更正した栄二には別段の興味も示さず、今の人足寄場で起こっている問題児のことでうわの空になる。 これが「生きる人間」のあるべき姿のような気がした。

話しの主人公は「栄二」であり、物語の主題とするものを持っているのは、タイトル通り「さぶ」であることも面白い。 現代の山本一力や乙川優三郎もいけてるが、山本周五郎の世界はまだまだ広くて深い。 

余談だが、山本周五郎自身は結婚してからも家庭を顧みることなく、あたたかい家庭は創作活動の敵として、旅館の離れにこもって仕事をし、破滅型文士といわれることに誇りさえもったという。 
..今の私には、楽しい家庭を顧みずにはいられない。
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# by Hhisamoto | 2005-09-05 23:09 | ■えせ文化人(本、映画・・)

山本一力 「ワシントンハイツの旋風」

私があらためて小説に魅せられたのは、30代後半に、パールバックの「大地」を、落ち着いて読む機会を得てからだ。 それまでの私は、ノンフィクションの中にこそ、リアリティを見出せる、と錯覚していたところがある。 ノンフィクションの臨場感からすれば小説(フィクション)は、所詮、「作り物の世界」という観念があったようだ。 しかし、パールバックの極まるような人間洞察の深さに圧倒されてしまい、それまで持っていた読書の世界の狭さを悔いた。 すべての書物は人間の良質な創造物であり、人の心に届く書物に対するジャンルの区分などは、図書館に収まる際の背表紙にしか役立たないことを知った。 一皮むけた小説との付き合いはそれからだ。

e0028123_2247787.jpg私はこの夏、山本一力の「ワシントンハイツの旋風」という、2003年の作品にめぐりあった。 山本一力さんの描く作品といえば、小気味の良い江戸人情モノという固定観念ができそうになっていたところだったので、興味深く一気に読ませていただいた。 時代背景や舞台となるシュチエーションは、氏の体験にもとづくものであることが予想できる。 私も生まれは東京・渋谷だが、ワシントンハイツという米軍住宅があり、東京オリンピックを機に、今の代々木公園に生れ代わったことなどは知らなかった。 

私の祖父は、日本における洋菓子の黎明期にその技術をもって東京へ乗り込み、当時の東急グループの二代目・五島昇の東急多摩田園都市計画に賛同して、渋谷を中心に異色ある洋菓子の店「ヒサモト」として10店舗ほど経営した。 そのころは、身内から成功した人間がでると、親類一同が集まって事業を支えた時代だった。 私の父母も渋谷店の仕事に従事し、神泉駅前の藤田ビルという鉄筋アパートで暮しながら、私を産み、育ててくれた。 

1966年、私は小学校進学と同時に目黒の駒場に移り住むが、目と鼻の先なので渋谷の記憶は多くある。 当時、渋谷・神泉界隈・円山町には、芸者が集う見番があり、人の流れと共に、三味線の音色が常に聞こえていた。 東急百貨店から出発するチンチン電車は、路面を走って三軒茶屋に向かっていた。 リキパレスが道玄坂中腹にあったし、プロレス好きな父は、体の大きな選手をよく店に招いていたようだった。 幸要軒の「かつサンド」は世界で一番美味かった。 商店街の華やかな喧騒、芸能人にやくざ者。 学生運動が盛り上がっていた時期には、道玄坂がデモ行進の場となり、交番が焼かれ、腕を失くした警官の話しも、身近な出来事として聞いた。

時代背景は、私の年代よりひと回りさかのぼるが、高度成長期の昭和の舞台を想像できるこの小説を、楽しく読ませてもらった。 でも、やっぱり山本作品は「あかね空」に代表される江戸の市井を描いた時代小説だと思う。
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# by Hhisamoto | 2005-08-21 20:54 | ■えせ文化人(本、映画・・)

B級グルメの基本は、食いしん坊にあり

名古屋駅セントラルタワーズの12F・13Fには、KIHACHIなど、ちょっとしたレストランの並ぶタワーズプラザがある。 

その中の一軒「とり五鐵」という店で、軍鶏親子丼を食した。 
塗りのお椀の親子丼のまん中に、さらに黄卵が鎮座して、目にも鮮やかな一品だ。 私はミシュラン伯でも、堺正章でもないので、人が手間隙かけて作ってくれた食べ物に、星の数をつける趣味はないが、味醂のきいた味は、なかなかのものだった。 もっとも私には、軍鶏と普通の鶏の細かな違いは分からない。 しかし、カウンターの目の前にあった山椒をあえて試してみると、これがいける。 うな重に使われる山椒とは、あらかじめ異なるものが用意されているようで、親子丼に合う山椒があることをはじめて知った。

12Fの「マーノマッジョ」というイタリアンのお店では、携帯電話とノートパソコンのメールで、2時間ほど仕事をすることになってしまい、その間に、大盛りサラダと生ビールを2杯、2人前の大きなピザを一人でガバガバと平らげてしまった。 B級グルメの基本は、食いしん坊にありだ! 松坂屋のレストラン街では、「ひつまぶし」も食べたし、栄の街では、南側に位置する花街を横目に「チャオチャオ餃子」という店で、小振りの餃子も2人前食べた。

ある名古屋人が、名古屋の文化的な位置付けを評して、「名古屋は関西ではない。関東である」と、言い切っていたが、大阪のそれとは根本的に違う、と言いたいのだろう。 関東(特に東京人)は、大阪の元気に拍手を送るが、ライバル視するようなこだわりをもっていないので、名古屋の位置付けにしても、タモリがその昔「みゃーみゃー」いうとる、と面白おかしく取り上げたのが最後ではないだろうか。 確かに、食べものの味付けにしても、あの「甘み」は、独特の境地を切り開いたというより、東か西にあったものに、一ひねり加えただけのような気がしてしまう。 

今年の3月、オーストラリアのメルボルンに一週間滞在した時に感じたことは、オーストラリアの文化的な面を見ると、同じ英語圏であるイギリスとアメリカに窓が開かれていて、独自性の強い文化が不足しているように思ったことだ。 どちらからも益になる部分を、どこからともなく取り入れている、という様に感じた。 イギリス・大英帝国から一足先に一人暮らしを始めたお兄さん・アメリカは、すでに一人で独自の主張をするたくましさを身につけて、暮らしや音楽などにそれぞれの文化を築いてきた。 同じルーツ・大英帝国を親に持つが、弟分のオーストラリアは、まだその域には達していないように思えた。

名古屋の味の文化を語るのに、大げさなたとえを使ってしまった私には、まだ「名古屋らしさ」が分かっていないようだ。
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# by Hhisamoto | 2005-08-14 02:07 | ■B級グルメ

がんばっていきまっしょい!

夏は、なぜか読書に適した季節。 数冊の本をもって、開放された時間に、気に入った涼しい場所でも確保できれば、そこは頬が緩むようなゆりかごの中。 

最近、名古屋出張の多い私は、名古屋駅ビルエリアに三省堂がいくつも点在することを知った。 特に高島屋、松坂屋には、本選びに心地よい大型書店がある。 ネットのアマゾンも便利だが、やはり本は情報ではなく「モノ」であるから、手に取って、においは嗅がないまでも、パラパラと立ち読みすることは欠かせない。 あれもいいけどこれもいいと欲張ったり、財布と相談したりの時が楽しい。 また、平積みになって、前に出ている本が自分の趣味に合っていたりすると、「この店は、なかなかセンスがいい!」などと、ひそかに店を誉めたりする。

e0028123_23433796.jpgこの日、迷ったあげくに買った三冊の本はどれもカワイイ。 お盆が近いこの季節柄、戦争の悲惨さを伝える沖縄戦の本や、小泉総理が油を注いだ靖国関連の本も興味深い。 しかし、なぜか私が最初に読み始めた本は、敷村良子の「がんばっていきまっしょい」という、第4回坊ちゃん文学賞大賞作品だった。 

最近、映像にもなっていることをあとがきで知った。 舞台は実在する四国松山の進学校、あの夏目漱石が教員をしていた松山東高校(旧制松山中学)。 筆者の敷村女史は実の卒業生である。 コピーライターなどをしていたが、あり余る想いを形にしてしまった処女作品というやつだ。 内容は想像の範囲を超えない青春ものであるが、セピア色でもなく、澄んだ空色ともいえないが、なんとも良い感じの自然色を持っている。

ストーリーは、なんとか進学校に入ったが、すべてについていけない主人公の悦子が、何を思ったか、女子ボート部を立ち上げ、仲間を作り、ボートに打ち込んでいく。 しかし、彼女たちの感覚は、体育会系の持つそれとは異なる空気の中で、日常の時間が経っていく。 そして、そんな日常的で普通の感覚の中から、負ければ悔しいと思い、「このままでは終われない」というこだわりを持ち始めたりもする。 仲間意識も、不器用な表現の中で、着実に芽生えたりする。 しかし、打ち込んでいく気持ちとは裏腹に、貧血をおこして倒れたり、ぎっくり腰をやったりと焦燥感をつのらせる。 

全編そんな普通感覚にあふれた三年間の高校生活を描いているが、時折ハッとするような人間の生き方を示唆する表現に出会う。 「毎日毎日、人間の細胞は何万個も再生される。 一週間もすれば、外見は同じでも、違う人間だ。 この自分は今しかいない。 一瞬の自分。 この瞬間に感じていること、今、身体すべての血が逆流するほどときめくことだけに、夢中になってはいけないのだろうか。」 というくだりがある。 また、最後のページ、ひとり東京に旅立つ悦子は「大人の階段は昇るというより、深い地下室におそるおそる降りていくような感じがした。」と表現する。

奇をてらうことなく、自分を主人公に置き換えて、ストレートに語るこんな小説が、私は大好きだ。 等身大で、背伸びせず、かつ、小気味良い。 純でほろ苦い「青春ドラマ」を読んで、新幹線の時間を楽しむオジサンがいてもいいだろう。 文句があるか!

あしたも、がんばっていきまっしょい!

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2005 夏
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# by Hhisamoto | 2005-08-12 23:14 | ■えせ文化人(本、映画・・)

映画「フリーダ」の人間臭さ

「フリーダ」というラテン系の映画らしきものに、出張先のホテルの有料TVで観入ってしまった。  メキシコの天才女流画家、フリーダ・カーロの47年の波乱に満ちた生涯を映画化したのだそうだ。 学生時代の乗合バスの事故により、一生を重い後遺症と共にいきたこと。 愛情に満ち溢れながらも波乱に満ちた、壁画家のディエゴ・リベラとの結婚生活。 それらの一つひとつに人間らしさを感じずにいられなかった。 

e0028123_054011.jpg美しいバストが印象に残るサルマ・ハエックという女優は、なんと本作の主演兼プロデューサーを務め、この作品の完成に8年を費やしたそうだ。 すべてに本物を求め、メキシコシティに撮影スタジオを置き、時代背景を再現するために、スタッフ一同はクランクインから1週間、メキシコシティの80マイル東を旅をして、コロニアル式やルネッサンス式のネオクラシックの建物を探し当て、ロケ地としたそうだ。

また、多くのピラミッドが並ぶ遺跡での撮影にこだわり、ハエックはメキシコ大統領に掛け合い、フリーダへの敬意から映画を製作すること、遺跡での撮影がどうしても必要であることを力説し、大統領からピラミッドへの立ち入り許可を得たという。 すべてのシーンや表現が美しく、そしてリアルであることが納得できる。

金粉を撒き散らしながら死の淵に向かうシーンも、生と死の境目をマンガで表すシーンも、すべて詩的で、鮮やかに私の記憶に刻み込まれた。 私は、こんな生々しい生き物としての人間が描かれたドラマが好きだ。 人間としてのアイデンティティ、性、政治との関係など、なんとも人間臭くて、深く引き込まれた。 

こんなすごい映画を観てしまったら、ムキムキ ドンパチのハリウッド映画なんぞは、水曜ロードショー以外では観る気がしばらく起こらないだろう。 
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# by Hhisamoto | 2005-08-05 01:15 | ■えせ文化人(本、映画・・)

素直においしい「ベジーヤ」のスープカレー

7月15日のむし暑い金曜日が、私の記念すべきスープカレー初体験の日となった。 場所は東西線「早稲田」を下車してすぐ。今は早稲田中学・高等学校となっているが、かっての王貞治の出身校・早稲田実業があった場所だ。 

スープカレーといえば「札幌」ということになっていて、札幌にて大ブレイクした後、東京に凱旋してきたイメージが強い。 サッポロスタイル・スープカレー「ベジーヤ」の説明によると、札幌のスープカレーには35年の歴史があり、ここ4~5年前からブレイクしているのだそうだ。 「北の大地からHOTな贈り物」という、たいそうなキャッチフレーズまでついているが、北海道産野菜をふんだんに使っているのは本当だ。 ポークカレースープ(¥980)を注文しても、その中には、じゃがいも、ニンジン、かぼちゃ、ブロッコリーなどが、丸のまま使われているのには目をうばわれる。 

スープカレーはあくまでスープ状のカレーが主役なので、皿に盛られたライスは、その箸休めのような存在らしい。 食べ方にもいろいろあるらしく、まずスープとして味わうことから始まり、次にライスをスプーンですくい、スープに浸して食べる。 さいごはライスをスープに入れて食べる、というように、名古屋の「ひつまぶし」を思わせるうんちくもある。 

6段階ある辛さからは、平均的な3を選んだが、それでも十分な辛さを味わうことができたし、豪快に使われている野菜が、とにかくいい味を出している。 丸ごとのニンジンなども、甘味をおびて実においしく、普段はニンジンを食べない人もいけるのではないかと思ってしまう。 「道産子」 おそるべし!
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# by Hhisamoto | 2005-07-18 21:31 | ■B級グルメ

インドカレーラーメン (その2)

井上宏生著「日本人はカレーライスがなぜ好きなのか」を読んだ私は、前節にて「インド人シェフが作るインドカレーラーメン」に対して、皮肉な笑いを投げてしまったことを後悔した。 氏の本によると、インドで誕生したカレーがイギリスを経て、文明開化に沸く日本に渡来した後、日本においていかに独自の変化をとげたかが描かれている。 

例えば、とんかつをカレーとドッキングさせ、カツカレーを作り出したのは、浅草の洋食屋「河金」のお客に対するサービス精神であったこと。 また、今をときめくカレーパンをあみ出したのは、1927年(昭和2)、東京・深川の菓子店「名花堂」の二代目・中田豊治という方だそうだ。 のちに銀座の木村屋をつくる木村安兵衛は、パンにあんを入れて「あんパン」をつくり、現代に至る大評判となったが、この中田氏は、パンにカレーを入れてしまった。 しかも、アイデアを真似ただけでなく、彼はカレー入りのパンを油で揚げる工夫を加え、「洋食パン」という名で売りだし、下町の人気を集めたという。 さらに興味深いことは、中田氏はこのカレーパンを「発明」として、実用新案七八四号として登録していたという。 

カレーを愛してやまないこの本の著者・井上氏の話しは、「福神漬」を10年かけて誕生させた海産物問屋・江戸屋の十五代目・清左衛門の逸話にまで至るが、著書の中で、日本ではじめて「カレーうどん」を世に送り出した店、東京・早稲田の「三朝庵」についても触れている。

近代化日本の貪欲さに溢れる明治という時代は、新しいものを恐ろしい速度で吸収していったらしい。 そして人はカレーをはじめとする洋食に傾き、外食産業の雄として長い歴史を誇るそば屋(大阪では、うどん屋)は、窮地に立たされた。 その苦境の中で、そば屋はカレーを敵にまわしながらも、一方で手を結ぶ政策をとったというのだ。 「カレーうどん」を生み出したこの三朝庵は、明治維新後に大隈重信が早稲田大学を起こすと、腹をすかせた学生や新しモノ好きな教授たちをおおいに満足させることになり、現在も堂々と店を続けているという。

どの話しも「いにしえ」ながら、奇抜で絶妙な知恵の成せる技としか言いようがない。 だとすれば、現代において、インド人シェフが「インドカレーラーメン」を世に出すくらいは、当然の試みだったかもしれない。 しかも場所は「カレーうどん」発祥の地、早稲田である。 突飛な発想を大真面目に実現しようとする者を、前節の私は、心の奥底でせせら笑ってしまった! 反省を込めて言いたい 「インドカレーラーメン 万歳!」 

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2005 初夏
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# by Hhisamoto | 2005-07-17 01:56 | ■B級グルメ

インド人シェフが作る「インドカレーラーメン」

早稲田大学理工学部で、教授の皆様に、私が扱っているデータベースについての説明をたっぷり半日行い、ヘトヘトになった帰り道、ここは食べもの屋がひしめく高田馬場の学生街であることにハタと気がつき、特に何も考えず、目についたカレー屋「ジョティー」に入った。

インド人の若夫婦が切り盛りしている小さな店内に入ってから気づいたことは、「インド人シェフが作る本格的インドカレー!」とある傍らに、カレーラーメン、ウドンのカレーツケメンというメニューが堂々とあったことだ。 いくら学生街だからといっても、そこまでやるかインド人シェフ!と言いたかったが、インドカレー味のカレーラーメンなるものを想像すると、もしかすると「似て非なるもの」かもしれない、などと興味をそそられ、もう少しでオーダーしてしまいそうだった。

インドの地ビール「MAHARAJA」を飲みながら、「インド各地の豪族や王様のことをマハラジャといい、絶大な権力を持っていたんだ」と20代後半を過ごしたアメリカで得たにわか知識を仲間に披露しながら、ふとビンのラベルを見ると、日本語で「マハラジャとは・・」と丁寧な説明書きがあった。

中央線の西国分寺駅を北側に下りてすぐのところに、カレーハウス「すぷーん」というカウンターのみの小さなお店がある。 私はその店でいつも「プレーンカレー」を食べる。 かけソバのようなもので、まさしく何の具にも邪魔されることなくカレーそのものを味わえる究極のメニューだと思っている。 また、カレーに自信がなければ置かないメニューだとも思う。 この「すぷーん」で出されるライスは、常にやわらか過ぎず固過ぎず、カレーには最適なご飯を炊いている。 盛られたそのライスに、濃い色をしたサラサラ系のカレーが薄く覆うようにして出されてくる。 カレーのスパイスの調合も見事なのだろうと思われるが、あの絶妙な味のバランスの整え方は、なにか「うまみ」「だし」といった日本人の口に合った、スパイス以外の味付けのなせる技が加わっているのではないかと思わせる。 ホテルニューオータニで30年間シェフを勤めたご主人が、大多数の日本人の好みに合う味付けを知り、適度に加え、確実に効いているような気がする。 事実、この店はよく大型連休をとるが、店を開ければ客足が絶えることがない。多くの人に受け入れられる味を目指してきた成果だろうと思う。

高田馬場「ジョティー」のインド人シェフも、日本人に受け入れられる味を追求するならば、インドカレーラーメン以外で勝負した方がよいと思う。
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# by Hhisamoto | 2005-07-09 02:08 | ■B級グルメ

神田神保町のカレー

インド&パキスタンレストランチェーン「シディーク」なるカレーショップが神保町のアダルトショップ芳賀書店ならびにできた。 店の間口は小さいが、12~3席分はとれそうな長いカウンター席が薄明かりの店内奥まで並んでいる。 たっぷりと幅をとったカウンター席の前にはブラックミラーが張り詰められていて、落ち着きがある。店の外側から見た騒々しいデザインからは想像できない。 だが、店内のBGMもインド音楽だし、入り口の上部に据え付けられたTVモニターからしつこく流れている映像も、せわしいインド風MTVらしきシーンだ。 おまけに、せまいスペースにインド人スタッフばかり5~6人いる。採算は合うのだろうか。 4人は厨房にいるのだが、つねに大声でしゃべっていてやかましい。インド人とはおしゃべり好きな人種なのだろうか。 私にはインドの言葉はわからないが、きっと芸能ネタか、好みの女のタイプの話しで盛り上がっているのだろう。 そうに決まっている。

チキンカレー、ラムカレー、レンズ豆を使ったダルカレー、エビの入ったブローンカレーなどのメニューのほか、ビリヤニなる、いわゆるカレーピラフもあるし、ビールのつまみになりそうなタンドゥーリチキンもあった。 でもカレーにビールは基本的に合わない。 カレーに合うのはたっぷりの甘みと特有の渋みをもった本物のマンゴージュースだ。 できるだけオーソドックスに食したい私としては、ラムカレー・ライスをオーダーする。ライスはボリュームたっぷりのターメリックライス。くせがなく十分においしいが、ナンがもっとおいしいのに気づいたのは、2回目に訪れた時だ。

同じ神田神保町には、大正13年創業の老舗、スマトラカレーの「共栄堂」がある。 800円のポークカレーが看板メニューだが、ルーダクで食べるのが好きな私には、ご飯が2割程あまってしまうため、1000円でカレーだけ大盛り、というやつを頼まざるをえない。 つなぎに小麦粉を使っていないらしく、すっきりとしたカレー本来の味が楽しめるし、スマトラをイメージさせるココナッツの香りもいいが、プレーンなカレーそのものを味わいたい私には、あの肉の多さはありがた迷惑といったところ。 席につくと、カップに入ったポタージュスープと共にオーダーを聞かれ、ポークカレーなら秒殺で目の前に並ぶ。 ちなみにこのポタージュスープはかなりいける。 貫禄のあるご主人みずからが店に立ってらっしゃるが、あんなに大勢のインド人従業員を雇う「シディーク」を見たら、ご主人はどう思うだろうか。 きっと「おしゃべりしながら仕事ができます!」などの甘い広告で、おしゃべりインド人を国から呼び寄せ、驚くほど安い給料で働かせ、夜は部屋を与えずに、修行と称して仏陀のように廊下に座らせているに違いない、と思うだろう。 そうに決まっている。
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# by Hhisamoto | 2005-06-25 01:38 | ■B級グルメ

GOLDEN CHILD BOXING Vol.75

6月15日は仕事もたまっている水曜日だというのに、夕方6時前には後楽園ホールに向かうタクシーの中にいた。 久しぶりに金子ジムから回ってきたボクシング観戦のチケットを手にしていたからだ。 GOLDEN CHILD BOXING と銘打たれた興行は、なんと75回を数えるに至ったらしい。10年以上前になるが、現在の会長である金子健太郎氏が「金子を英語にしたんだよ」といたずらっぽくいいながら、「でも金の卵のように、金の子を育てる場にしたい、という思いもあるんですよ」と、私にGOLDEN CHILD BOXINGの名前の由来を説明してくれた頃は、まだほんの数回目の興行だったと記憶している。 軽さを覚えていたこの興行名を、こつこつと積み上げた重さが、大きく超えていることを実感した。

第1試合からファイナルまで、すべての試合をお行儀よく見ることになったのは、沖縄出身でボクシング好きの宮城氏と同行したからだ。 彼が関心を示した試合は、52Kg契約ウエィトで戦った、清水智信(金子ジム)と河上哲也(駿河ジム)の 8回戦。 宮城氏が言うには、23才期待の新鋭清水選手は、浅い戦績にもかかわらず8回戦を戦うだけあってバランスのとれた良い選手だが、対戦相手32歳河上選手の老獪さとテクニックは、それにも劣らずにすばらしい、と繰り返し惜しみなくほめた。 酔って地元沖縄を語らせれば最後は涙する宮城氏の、こういった見方がボクシングを支える正しい観戦方法なんだろうな、と妙な納得をした。

私が唯一席を立ったのは、リングサイドに先代の会長「金子繁治」氏と延子夫人を見つけ、挨拶に出向いた時だ。 先代会長といっても、会長職を私と同年代の長男健太郎氏に譲ったことを知ったのは、つい先ごろのことであり、また私にとって会長といえば金子繁治御大に他ならない。 金子繁治会長に近寄り挨拶をすると、私のねぎらいの言葉は聞こえないかのようなそぶりで、「立派になったな、外で修行したことがよかったんだな」などと暖かい言葉をかけてくれる。私もいつか人の心を暖かく包む言葉が使える人間になりたいと思ってしまう。 金子繁治会長は、まだボクシングが日本のメジャースポーツだったその昔、東洋無敵のフェザー級チャンピオンであり、その試合には日本武道館の回りを何周ものファンがならぶような、超がつく人気を博し、銀座をオープンカーでパレードすれば花と紙吹雪で迎えられたという。 当時「ミス丸ビル」だった延子さんを妻に娶ったのは、オープンカーのパレードの帰り道だったとか.. 延子ママに対しても、普段の私はそんな冗談は言えない。 私はこういう人たちに育ててもらったのだ。
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# by Hhisamoto | 2005-06-21 21:56 | ■おやじスポーツ